さとうきび畑 歌碑広場

2012年4月に完成した、「さとうきび畑 歌碑広場」をご紹介します。
辺り一面さとうきび畑が広がる場所に作られました。
さとうきび畑の中にあります
入口の看板です。「さとうきび畑 歌碑広場」と書かれています。
さとうきび畑 歌碑広場
こちらが「さとうきび畑 歌碑広場」です。
さとうきび畑 歌碑広場
こちらの器械、緑のスイッチを押しすと、音楽が流れてきます。
音楽が流れてきます
周りの景色を撮影しながら、流れてくる音楽をミニ動画で録音してみました。
(注意:音が小さいので、聞き取りにくかもしれません)

ざわわ憲章
ざわわ憲章
写真では文字が小さいので、大きな文字で書いてみました。
ざわわ 憲章
私たちは、平和を希求する全国の皆さんの熱い志で建立した
「さとうきび畑」歌碑の継承を、次の憲章で表明します。
・歌碑は、いくさのない世界をめざすために活用します。
・歌碑は、こどもたちの平和の心を育むために活用します。
・歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。
・歌碑は、沖縄に点在する平和学習の場のひとつとして活用します。
・歌碑は、さとうきび畑の自然景観を守るために活用します。
・歌碑は、作者が詩と曲に込めた平和の精神を歌い継ぐために
活用します。
2012年4月1日 「さとうきび畑」 歌碑建立実行委員会

「さとうきび畑」の歌碑
「さとうきび畑」の歌碑
写真では文字が小さいので、こちらも大きな文字で書いてみました。
「さとうきび畑」の歌碑
沖縄戦から19年経った1964年6月に、「さとうきび畑」の作詞作曲
者・寺島尚彦は34歳で初めて沖縄を訪れ、地元の人の案内で、激戦
地であった南部・摩文仁のさとうきび畑に立ちました。
この時のことを寺島尚彦はこのように書き残しました。
車から降りて土の道をどのくらい歩いただろうか、気がつくと私の
背丈よりずっと高く伸びたサトウキビ畑の中に埋もれているのだ。
熱い南国の陽ざしと抜けるような青い空。その時だった、「あなたの
歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっ
ています」天の声のように言葉が私に降りかかり、一瞬にして美しく
広がった青空、太陽、緑の波うつサトウキビすべてがモノクロームと
化し、私は立ちすくんだ。轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒
し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。
寺島尚彦は2年近くかけてサトウキビ畑をわたる風の音「ざわわ」と
いう言葉にたどり着き、66回繰り返される「ざわわ」に思いを込め、
1967年、「さとうきび畑」は生まれました。そして半世紀近く経った
今も、多くの歌手や合唱団によって全国で歌い継がれ、普遍的な
世界平和を希求する名曲として、世代を超えて人々の心の中に染み
込んでいます。
住民の4人に1人が亡くなるという未曾有の被害をもたらした沖縄戦
において、読谷村は「昔 海の向こうから いくさがやってきた」地点の
ひとつです。歌碑は「さとうきび畑」歌碑建立実行委員会により建立
され、読谷村に寄贈されました。
作曲家・寺島尚彦のプロフィール
1930年6月4日生まれ、東京出身。「さとうきび畑」など作詞も多数。
東京芸術大学音楽学部作曲科卒業後、コンボバンド「寺島尚彦と
リズムシャンソネット」を結成、ピアニストとしてNHK「#さんbさん」
「なかよしリズム」などのテレビやラジオで活躍。作品は「みんなの
うた」や「全国学校音楽コンクール」課題曲をはじめ、学校の教科書
などに数多く提供。全国の学校の校歌も手掛ける。作曲以外にも
演奏会の企画制作、コラム、エッセーの執筆、講演活動を行い、
同時に大学でも教鞭をとり多くの演奏家を育てた。生涯現役貫き、
2004年3月23日永眠。

「さとうきび畑 歌碑広場」の場所(行き方・道順)をご紹介します。
とりあえず、読谷村にある高級リゾートホテル・ホテル日航アリビラを目指していきます。
そして戦跡で有名な「チビチリガマ」を確認したら、そこから残波岬向け車で約300m走ると
ご覧のような小さな三叉路が見えてきます。
小さな三叉路です
角には「さとうきび畑 歌碑広場」の看板がありますので、分かりやすいと思います。
看板が目印
農道のような狭い道路を約100m進んで行きます。
狭い道路です
道路の先には、とても小さな看板が見えてきますので、こちらを左折していきます。
とても分かりにくいです
歌碑広場はスロープ付きになっていますので、車イスや障害者の方でも簡単に行くことが出来ます。
スロープが設置されてます
沖縄の人気リゾートホテル「ホテル日航アリビラ」近くにありますので、
近くを通る際に、少しだけ寄道をして、平和の大切さを感じてみてはいかがでしょうか!

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